人生で何度も浮き沈みを繰り返してきた大崎ユージです。
人間なら誰しもが落ち込んだり、逃げ出したくなったり、そうなるのは当たり前ですよね。
そんなときに支えてくれる人や没頭できることが、気持ちを落ち着かせたり立ち直らせてくれたりするものです。
なにも持たないときに、うまくいっている人は羨ましい
一年ほど前にもう限界と思って時間的ブラック企業を辞め、スッキリした気持ちになっていた時期があります。
それと同時にこれからはどうしようかとか、大丈夫だろうかとモヤモヤな気持ちも抱いていました。
その頃につながりのあった友達は、大学を出てから社会人としてしっかりと生活していたり、しっかりとした夢を持ちながら自立した生活を送っていました。
ある程度は大変だけど、しっかりと自分の道を歩いている、そんな風に僕には見えたと思います。
その時の僕はそこから先のことがよく見えていない、そんな状況でいれば彼らを見ていると羨ましく見えたりします。
自分が惨めな気持ちになる、って思ったかどうか定かではありませんが、ちょっと距離を置こうという気持ちになったのです。
日本人は特にこんな気持ちになることが多い気がします。
自分と他人を測る基準といえば、いい大学や会社に入ったとか、どれくらいの給料をもらっているとか…。
その時の僕は仕事をしていない、故にお金が入ってこない、周りはそれなりに安定した生活を送っている。
比べたらもちろん僕は彼らより下にいる。
劣っていることが恥ずかしいという心理が、これまでの人生でどこかで埋め込まれてしまったんだと思います。
関わる人がいない=成長しない
それから数ヶ月の間、ニートとなった僕は、さらには関わる人もいないという生活を送っていました。
今でさえネットがつながっていたら、文字を始めとして何かしらつながりのようなものを持てる時代です。
でも、そこに成長があるかと聞かれれば無いに等しい。
人の声を通して聞いたものや、人と一緒に感じたものが、自分を作り成長させ、それをまた誰かに繋いでいく。
それが人間の本質であり、生きる喜びにつながっていくのだろうと感じました。
人生のレールの近くまで戻るのは簡単
一般的な人からしたらその他大勢に分類されることは嫌なことだと思います。
名前のない人物として働く、なんて考えたことがない人が多数でしょう。
一度ニートを経て働こうとしたときに、思った以上に人との関わりを最低限にしたいと感じたんです。
その他大勢でも別に構わない、そんな気持ちです。
社会復帰する人間からすれば、すぐにたくさんの関わりを持ちたくないのです。
探せばいくらでも職があると言われる時代だからこそ、そんな仕事があったのかもしれません。
ボロ雑巾のように使われようが、使い捨てにされようが、まず社会に戻れるようになるにはちょうどよかった気がします。
そんなふうに現在の僕は人生のレールの近くまで戻れています。
浮き上がってきたから、失ったものを取り戻せ
それでも、まだまだ先が見えているわけじゃなく、安定しているわけでもないわけで。
ある程度は浮き上がってきたところまできたというくらいの現状だから、こういうことが言えるんではないかと思うのです。
長い人生で失うものも得るものも多いものです。
自分ではいらないと思って捨てたものも、あとからもう一度欲しくなったりするのが当たり前。
一度に持てるものもそんなに多くないし、沈んでいるときにはさらに持てるものが限られてくる。
再び浮き上がってきたんだから、持てるキャパが増えたんだから、持ち直してみるのもありかな。
そんなに長く手離したままだと、帰ってこないものもありますから。
また連絡してみます。